小さいころから目に見えない世界について、興味は常にあり続けました
宇宙人、四次元の世界、コックリさん、
この世というものはきっと、目に見えるものが全てではない。。。
占い、へんな記憶、夜に見る夢、輪廻がテ-マの漫画( 里中満智子さんの海のオーロラなど大好きでした! )
そのくせそれらは隠さなければいけない出来事として、ごくごく親しい友人に(熱く)語る以外はずっと私の中の秘密でした
小学生の頃父親がよくあちらこちらのお寺につれていってくれました
意味ありげな光景に、自分なりの答えを擦り合わせ、納得いくまで見つめました
そういうことが好きな変わった子供でした
どこかのお寺で一人のお坊さんが静かに座禅をくんでいるのを見る機会があり、「空」になっているんだと父親が説明してくれたときはどう理解してよいのかわかりませんでした
どこからみても確実に居るその人がいない・・・??
帰りのバスを降りながらも、目にしたその光景が頭から離れず、その後何日かたってもまだ私はそのことを考えていました
あの人は何をしていたんだろう。。。
父も母も私を納得させるような答えはくれず、しょうがなくお坊さんのことは曖昧な理解で笑って片づけることにしました。
そして、弟と二人で「空!」「空!」といって座禅を組んで遊びました
ただ、その時の映像と疑問はずっと私の中に生き続けました
「居るのに、いない、とは?」
隠れ探求者としての生活は20代以降本格的に始まり、主に書籍を片っ端から読み漁る方法でそれを行いました
普通に会社勤めをし、普通に自分探しをし、普通に夢を追いかけ、なんとか普通と人から思われそうな範囲を出ないまま、そこが私の持ち場なのだと隠れて探求を続けました
日常を楽しんでいるフリをし、現実世界に活かす為だと言い訳をしながら
一人でも、覚醒する。
今回(の生)で終わりにする
いつからそうきめていたのか
私の中にはしっかりとした決意がありました
40才になる頃探求も頭打ちとなり、同じ所でぐるぐるしている自分を感じました
現実の世界で追いかけ続けた夢も結果形にならず、一旦あきらめました
だけど、心に忠実に生きてきた人生に私は満足していました
今死んでも後悔はしないとふと思い、それに反して人生の残り時間はまだまだたくさんあるようにみえました
その頃ちょうど新しい会社にご縁が繋がり、たまたま出会った仕事がかなり面白く、そこからの数年間、探求の事は少し脇に置いて、私は現実の世界を夢中で楽しみました。
そして思いました
もう充分今までにしたいことはやってきた。
このまま最後まで、逃げれるものなら逃げ切りたい!
悟りたいとか、本当の自分を具現化したいとかそんな事よりも、
「会社という場所に守られて安全に生きる幸せを噛み締め、なんとか年金まで生活を繋ぎたい…!」と。(笑)
その会社は本当に楽しくて、私は最後の最後までなんとかこの場所に居続けられるようにとあらゆる工夫をし、変化し続ける自分を押さえ込む努力をしました
そんな努力のひとつとして、いつの間にかまた精神世界の探求も復活していました
ほどなく1冊の本、大和田菜穂さんのデビュー作「すでに愛の中にある」に出会います
それが世に出た時、スピリチュアルの界隈がなんだか大騒ぎをしていたので、
なんだろう?と軽く興味をそそられ、気楽にポチっとその本を購入してしまいました
それは衝撃の運命の出会いでした
曖昧だった事の全ての答えが、あまりにもはっきりくっきりとあからさまに繰り返しシンプルに書かれていました
私は居ない
あなたも居ない
一つの意識(菜穂さんの表現ではライフ)
が、ただあるだけ。。。
動画の菜穂さんは明るく笑って同じメッセージを繰り返します。
私は深い所で、それが全て真実であることを理解しました
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今、3ヶ月前に会社を辞めて、
忙しさから解放され、日々ほどけていく自分を感じています
同時に「自分」という認識を保ったままでは、小さな自分には背負う物が多すぎて、現実を生き抜く事はこれ以上は困難なのです
もう、頭ではわかっている、
ひとつの意識に戻る時が来たのです
私にはまだ自分という感覚(菜穂さんの表現では収縮したエネルギー)がありますが、
自転車の乗り方を覚えるように、その気になって練習すれば案外いつの間にかなくなってるんじゃないかと、それに切り替える事にしたのです
何かを目指すのは小さな「自分」のすることなので、なんか違うのですが、
ですが、それでもなんでももういいのです。
やめた。フリするのやめた。本当は全部わかっているのだから!
それがブログのタイトル、Change! に込めた私の今の“期待”です
~その気になり生活してブログで経過報告→いつのまにか自分の枠が外れてワンネスになっていたら嬉しい~
言葉での説明が難しいので、冒頭の図で説明をすると…。
図(A)のように、下方の体を私と思って生きてきたが、その体も含んだ全部(B)が本当の私だった
私は(B)だと24時間思い出しながら、(B)のように世界を眺めて生活を始める
たとえば目の前に見えるこんなのも、私。
↓
(枝、葉っぱ、隙間から見える空間も含む全てのこと。
更に詳しく説明すると、鳥の鳴き声、遠くの車の音、太陽の暖かさ、風を感じてああ、気持ちいいな。と思う私の感覚や思考など、今ここにある全てのこと。
もし、ベンチに座る女の子と会話したなら、ベンチも、女の子との会話も、女の子も含めた全てのこと。
あと、私の体の一部分もありますね。)
これは、現実の捉え方の一側面で、私がそのように理解した、ということです
ノンデュアリティ(非二元)や、禅などで説かれている内容と、多分同じ理解だと思っています
それをこちら(「自分」側 )から近づいていくきっかけを探るということです(←探求してる間は、悟れないという話ではありますが。)
ただの暗示行為になるのかもしれませんが、思い立ったが吉日
やってみます!
(*^^*)♥